1972年に矢沢永吉と共にコンビを組み、伝説のバント「キャロル」を結成!
革ジャンリーゼントで 怒涛の3年間を駆け抜けたジョニー大倉!
キャロルでは、ギターと作詞を担当!
1973年には、「ファンキー・モンキー・ベイビー」の大ヒット曲を生み出した。
その後 ジョニー大倉の人生は転落にすすんでいった。
ジョニー大倉と矢沢永吉の確執とは何だったのか?
そんな ジョニー大倉と矢沢永吉の関係や息子との絆を紐解きたいと思います。
ジョニー大倉の転落!

ジョニー大倉
転落といわれる出来事!
ジョニーはキャロルのメンバーとして一世を風靡した後、ソロ活動や俳優業に挑戦しましたが、次第にメディア露出が減少していった。
私生活でも父親との対立が若い頃から影響を与えていたと言われる。
音楽活動の低迷や、金銭的なトラブル、さらには暴力事件への関与などが報じられた。
1980年代以降は、かつてのスターとしての輝きと裏腹に、スキャンダルやトラブルが目立つようになっていったんだよね。
ジョニーの人生は単なる「転落」では語りきれないと思うんだ。
晩年には家族との絆や、自伝的な作品を通じて過去を見つめ直す姿も見られたし、波乱万丈な人生そのものが、彼のロックな生き様を物語ってる気がするよね。
ジョニー大倉と矢沢永吉の確執!
2人の出会い!
1972年、矢沢永吉さんが川崎のイトウ楽器店に、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求む!」という自ら書いた張り紙でバンドの募集をかけたんだ。
それを見たジョニー大倉さんが、矢沢さんに電話をして待ち合わせし、近くの喫茶店で2~3時間話して、他2名を含め、4人のメンバーで「キャロル」の結成が決まったんだ。
こんな感じで決まるなんて凄いシンパシーだったんだね。面白い。
ビートルズのコピーバンドとしてのスタートだったけど、バンド結成当時から、日本語のオリジナル曲を歌っていたんだよね。
主に矢沢さんが作曲、ジョニー大倉さんが作詞を担当していたんだ。
矢沢さんは、キャロル結成時には、既に100曲以上のオリジナル曲を持っていたんだって。
バンドスタート時に、既に100曲以上なんて、本当に凄いよね。
スターになるべくして成ったんだと私は思う。
当初、バンドのコンセプトを作っていたのは、ジョニー大倉さん。
クリスマス・キャロルにインスピレーションを受け、「キャロル」というバンド名にした。
革ジャンにリーゼントというスタイル導入もジョニー大倉さんの発案によるものだった。
ジョニー大倉さんは発想力が豊か!才能かなあ。
無名だったキャロルのテレビ番組を見ていたミッキー・カーチスの目に留まった。
番組プロデューサーに「レコーディングしたいから、先約がかかる前に、彼らを、押さえておいて欲しい」と伝え、ミッキー・カーチスのマネージメントで、プロデビューしたんだ。
キャバレーで演奏していたようなバンドが一気にメジャーデビューを果たした。
これが伝説のバンド「キャロル」の始まりだった。
そして1972年、「ルイジアナ」でデビューし、毎月1枚のシングルをリリース。
「ヘイ・タクシー」「ファンキー・モンキー・ベビー」とヒット曲を飛ばし続けたんだよね。
当時は凄かったよね。
1973年リリースした7枚目シングル「ファンキー・モンキー・ベイビー」は、当時のロックバンドとしては異例の30万枚の売り上げ!
今なお多くのアーティストにカバーされ続けている曲なんだよね。
名曲だよ!
確執の始まり!
ジョニー大倉さんは、結成したデビュー当時 に一時連絡が付かず、4ケ月後現れた時には、顔中切り傷があるような状態だったんだ。
その為、デビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、矢沢さんによって決定されるようになっていくんだ。
矢沢さんは、無名のキャロルを世に知らしめるには、テレビ出演が最も有効と考え、吉田拓郎を始め、フォーク歌手の多くはテレビを拒否していた中で、ツッパリイメージは保ちつつ、音楽マスメディアを全く拒否しなかったので、マスメディアから好意的に受け入れられていた。
矢沢さんの”売れる為に何をするか”というマネージメント力は流石だなあ!と私は思う。
当時キャロルのメンバーは、極度の緊張もあってか、ライブの前に大量のお酒を飲みステージに上がっていたんだよね。
メンバー全員で楽屋で大酒を煽り、極度のトランス状態に入って演奏、ステージ上ではジョニー大倉が失神したりという事もあったんだよね。
この出来事で、キャロルは失神する程の強烈なステージをするという噂が飛び交い、キャロル人気により拍車をかけたんだよね。
お酒を飲んで、ステージに上がるなんて今じゃ考えられないよね。古き良き時代だったんだね。
ジョニー大倉さんは、著作で「ドラックを始めたのは、キャロルデビューしてすぐの頃」と書いているよね。
当時ドラッグに依存する生活ぶりで、4ケ月ぐらい行方不明で、発見されたのは、川崎の精神病院との事。
顔は凄い切りキズだらけで、ジョニー大倉さんは精神的に繊細で、弱かったんだね。
ジョニー大倉さんは復帰したけど、この時点でバンドはほぼ壊滅に陥っている状態!
そして、1975年4月に日比谷野外音楽堂での解散ライブに繋がって行くんだよね。
「キャロル」の偉業!
3千人収容の会場に、7千人が詰めかけ、解散ライブ!
このテレビ放映は、TBSテレビ「特番ぎんざNOW!」という番組で、後日放映されたんだよね。
日本のロックバンドのライブ映像が、テレビ放送された最初となった。
人気凄かったよ。
同年NHKディレクターがドキュメンタリー「キャロル」を制作したが、放映の是非を巡って、大きな社会問題となったぐらい。
「キャロル」がNHK 出演で、社会現象が起こる!なんて凄い事だと思うよね。
ジョニー大倉と矢沢永吉との友情!
矢沢永吉さんにとって、ジョニー大倉さんはキャロル時代からの仲間であり、ライバルでもある存在!
矢沢がジョニーについて語った言葉!
「ジョニーは才能はあった。でもその才能を活かせる器ではなかった」
「ジョニーとの個人的な関係は、最後はうまくいかなかった」
と語っており、友情と確執が入り混じった複雑な関係だった事が伺える。
キャロル解散後も、それぞれのソロ活動や俳優業に進み、その関係性は複雑だったんだね。
1度だけ会った永遠の時!
ジョニー大倉さんが、ラジオ番組収録後、六本木交差点に立っていると、目の前にリムジンが停まり、矢沢さんが顔を出したそうです。
矢沢さんが「何してるんだ?」って聞かれて、「これから一杯やろうと思って!」と言ったら、「じゃあ一緒に飲もうぜ!」という事になったんだ。
矢沢さんが「俺は銀座でしか飲まない!」と言って
「金のことは心配するなよ!俺は成り上がりだぜ!」と言って笑い、ジョニー大倉さんをリムジンに乗せ、銀座の高級クラブを貸し切りにしてくれたそう。
酔いが回ってきた頃、矢沢さんが、「ギター持っているだろ、弾いてくれよ」と言いだし、ジョニーさんが弾き始めると、誰もいない広い銀座のクラブで、矢沢さんが歌い始めました。
「ジョニー大倉が俳優として、世間に認められた事を祝ってくれたんだなって、後で思ったよ!」とジョニー大倉さんはその時を振り返ってます。
別々の道を歩み始めてから、たった1度だけ2人が会った永遠の時間でした。
本当に泣ける話ですよね。
矢沢さんはダイレクトには言わないけれど、ジョニーとえいちゃんの深いシンパシーを私は感じる。
ジョニー大倉さんは、矢沢さんへの批判も凄くしていたけど、矢沢永吉さんが大好きだった!
「えいちゃんに会いたいなあ」と、よく言っていたそう。
色々あった2人ですが、2人に起きた出来事が美しい思い出となった瞬間だったね。
ジョニー大倉と息子との絆!

ジョニー大倉
ジョニー大倉は、2009年に悪性リンパ腫の治療を受けていると公表した。
その後もライブ活動を展開し、2013年に肺がんが見つかり治療を受けていた。
2014年4月に最後のステージに立った後、10月に肺炎を併発し悪化していってしまうんだよ。
息子のケニー大倉さんは、1年6ケ月に及ぶ壮絶な闘病生活、最愛の父との最後の日々だった。
2013年5月に、余命2週間の命と肺がんである事を宣告されたが、母と「絶対治るから闘おう!と話していた」と語っている。
2014年4月に「復活ライブ」を敢行し復活をアピールしたがその時点で、ジョニー大倉さんは、杖なしでは立って歩けなかった!といいます。
8月に、容態が悪化するも、9月には、「バースデイライブ」を開催!これが最後のファンに向けた映像となってしまったね。
亡くなる前日には、父と最後の握手を交わし、「ケンイチ頼むな!」って言われた気がした。と最後のシーンを振り返えっている。
8月の再入院の2ケ月後には、ジョニー大倉の妻マリーさんが心筋梗塞で倒れ同じ病院に入院してしまうんだ。
ジョニーさんは、車椅子で妻のもとに駆けつけたそう。
その後1人で父の看病することになったケニー大倉さんは、この時初めて父に向き合えたのだ。
若い頃は、父に反発ばかりしていたというケニー大倉さんは、最高の父であり「最高のロックンローラーでした」と亡父を偲んでいるよね。
ジョニー大倉さんは最後のステージを終えた後、8月に再発し肺がんが全身転移して11月に帰らぬ人となりました。
えいちゃんとの本当のお別れです。
ジョニー大倉さんは、最後まで立ち止まらずに、戦い続けた壮絶な人生だったと思う。
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