ジョニー大倉の死と息子ケニー大倉、キャロル時代の矢沢との確執と愛

男性グループシンガー

1972年に矢沢永吉と共に曲作りのコンビを組んで、革ジャンでリーゼント!伝説のバンド、キャロルを結成し、1975年に解散!怒涛の3年間を駆け抜けたジョニー大倉!キャロルでは、ギターと作詞を担当!1973年には、「ファンキー・モンキー・ベイビーズ」等の大ヒット曲を生み出した。

ジョニー大倉は、2014年11月に、日本赤十字社医療センターで、肺がんと診断され、肺炎を併発して62歳で死去している。最後まで癌と戦い続けた人生でした。

 

息子のケニー大倉が語る、余命宣告を受けたジョニー大倉の壮絶な生き方

ジョニー大倉は、2009年に悪性リンパ腫の治療を受けていると公表!その後もライブ活動を展開し、2013年に肺がんが見つかり、治療を受けていたが、2014年4月に最後のステージに立った後、10月に肺炎を併発し悪化して行った。

息子のケニー大倉さんは、1年6ケ月に及ぶ壮絶な闘病生活を、最愛の父との最後の日々について語っている。

2013年5月に、余命2週間の命と、肺がんである事を宣告されたが、母と「絶対治るから闘おう!」と話していた。と語る。

2014年4月に、「復活ライブ」を敢行し、復活をアピールしたが、その時点で、ジョニー大倉は、つえなしでは立って歩けなかった!といいます。

8月に、容態が悪化するも、9月には、「バースデイライブ」を開催!これが最後のファンに向けた映像となった。

亡くなる前日には、父と最後の握手を交わし、「ケンイチ頼むな!」って言われた気がした。と最後のシーンを振り返る。

8月の再入院の2ケ月後には、ジョニー大倉の妻マリーさんが、心筋梗塞で同じ病院に入院し、ジョニー大倉は、車椅子で妻のもとに駆けつけた。

1人で父の看病することになったケニー大倉は、この時初めて父に向き合えたのだそうです。若い頃は、父に反発ばかりしていたというケニー大倉は、「最高のロックンローラーであり、最高の父でした」と亡父を偲んでいます。

ユウチューブ動画で、エド山口さんは、4月に銀座のタクトで、最後のジョニー大倉を、たまたま見かけたそうですが、息子さんが横に立って、一週間後のステージのリハーサルをしていたそうです。在りし日のジョニー大倉ではなくなっていて、声も掛けられなかったそうです。

ジョニー大倉は、最後のステージを終えた後、8月に再発し肺がんが全身転移して11月に帰らぬ人となりました。

ジョニー大倉は、最後まで立ち止まらずに、戦い続けましたね。凄い壮絶な生き方です。

 

ビートルズの影響をうけた伝説のバンド「キャロル」

1972年、矢沢永吉が川崎のイトウ楽器店に、「ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求む!」という自ら書いた張り紙でバンドの募集をかけて、それを見たジョニー大倉が、矢沢に電話をして待ち合わせし、近くの喫茶店で2~3時間話して、他2名を含め、4人のメンバーで「キャロル」の結成が決まった。

ビートルズのコピーバンドとしてのスタートだが、バンド結成当時から、日本語のオリジナル曲を歌っていた。主に矢沢が作曲、ジョニー大倉が作詞をしていた。矢沢は、キャロル結成時には、既に100曲以上のオリジナル曲を持つていた。

バンドスタート時に、既に曲があるなんて、本当に凄いですよね。

当初、バンドのコンセプトを作っていたのは、ジョニー大倉で、クリスマス・キャロルにインスピレーションを受け、「キャロル」というバンド名にし、革ジャンにリーゼントというスタイル導入もジョニー大倉の発案によるものだった。

ジョニー大倉は発想力が豊かですよね。

ジョニー大倉は、結成当時に精神病院に入院して一時連絡が付かず、4ケ月後現れたときには、顔中切り傷があるような状態だった。デビューから2年半、解散に至るまでのキャロルの動きは、矢沢によって決定されるようになった。

矢沢は、無名のキャロルを世に知らしめるには、テレビ出演が最も有効と考え、吉田拓郎を始め、フォーク歌手の多くはテレビを拒否していた中で、ツッパリイメージは保ちつつ、音楽マスメディアを全く拒否せず、マスメディアから好意的に受け入れられた

。矢沢の”売れる為に何をするか”というマネージメント力は流石ですね。

無名だったキャロル出演のテレビ番組を見ていたミッキー・カーチスの目に留まり、番組プロデューサーに「レコーディングしたいから、先約がかかる前に、彼らを、押さえておいて欲しい」と伝え、ミッキー・カーチスのマネージメントにより、プロデビューした。キャバレーで演奏していたようなバンドが一気にメジャーデビューを果たし、これが、「伝説のバンド」の始まりだった。

1972年、「ルイジアナ」でデビュー、毎月1枚のシングルをリリース。「ヘイ・タクシー」、「ファンキー・モンキー・ベビー」とヒット曲を飛ばした。

矢沢のコンサートでは、今だに歌い継がれている名曲ですよね。

当時キャロルのメンバーは、極度の緊張もあってか、ライブの前に大量のお酒を飲みステージに上がっていた。メンバー全員で楽屋で大酒を煽り、極度のトランス状態に入って演奏し、ステージ上ではジョニー大倉が失神したりという事もあった。この出来事で、キャロルは失神する程の強烈なステージをするという噂が飛び交い、キャロル人気に拍車をかけた。

お酒を飲んで、ステージに上がるなんて今じゃ考えられないですね。古き良き時代だったんですね。

1973年リリースした7枚目シングル「ファンキー・モンキー・ベイビーズ」は、当時のロックバンドとしては異例の30万枚の売り上げで、今なお多くのアーティストにカバーされている曲です。

同年NHKディレクターがドキュメンタリー「キャロル」を制作したが、放映の是非を巡って、大きな社会問題となる。

社会現象が起こる!なんて凄い事ですね。

ジョニー大倉は、著作で「ドラックを始めたのは、キャロルデビューしてすぐの頃」と書いています。当時ドラッグに依存する生活ぶりで、4ケ月ぐらい行方不明で、発見されたのは、川崎の精神病院だった。

ジョニー大倉は精神的に繊細で、弱かったんですね。

その後、ジョニー大倉復帰したが、この時点でバンドはほぼ壊滅状態に陥っていた。

1975年4月に、日比谷野外音楽堂での解散ライブでは、3千人収容の会場に、7千人が詰めかけ、解散ライブのテレビ放映は、TBSテレビ「特番ぎんざNOW」という番組で、後日放映された。日本のロックバンドのライブ映像が、テレビ放送された最初である。

 

矢沢永吉が語ったジョニー大倉との友情!そして別れ!

矢沢永吉にとって、ジョニー大倉はキャロル時代からの仲間であり、ライバルでもある存在だった。キャロル解散後も、それぞれソロ活動や俳優業に進み、その関係性は複雑でした。

矢沢永吉は、「ジョニーは才能があった。でも、その才能を活かせる器では、なかった。」「キャロル解散後は、それぞれの道を進んだ。それは、仕方なかった。」「個人的な関係は、最後はうまくいかなかった。」などの言葉を発しており、ジョニー大倉への複雑な感情を表わしています。

ジョニー大倉が、ラジオ番組収録後、六本木交差点に立っていると、目の前にリムジンが停まり、矢沢が顔をだした。矢沢に「何してるんだ?」って聞かれたので、「これから一杯やろうと思って!」と言ったら、「じゃあ一緒に飲もうぜ!」という事になり、「金のことは心配するなよ!俺は成り上がりだぜ!」と言って笑い、ジョニー大倉をリムジンに乗せ、、銀座の高級クラブを貸し切りにしてくれた。

酔いが回ってきた頃、矢沢が、「ギター持っているだろ、弾いてくれよ」と言い、ジョニーが弾き始めると、誰もいない広い銀座のクラブで、矢沢が歌い始めた。「ジョニー大倉が俳優として、世間に認められた事を祝ってくれたんだなって、後で思ったよ!」とジョニー大倉は振り返ってます。

ジョニー大倉は、矢沢への批判もしていたが、矢沢永吉が大好きだった!よく「えいちゃんに会いたいなあ」とか、言っていたそうです。

色々あった2人ですが、大人達の出来事や美しい思い出に、胸がジーンときますね。

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