杏里 夫 岸田健とのスピード離婚!その真相と現在63歳?

女性シンガー

杏里さんは、1978年17歳で、ロスアンゼルスでレコーディングし、今スタンダードナンバーとなっている「オリビアを聴きながら」という曲でデビューしました。歌詞の内容が心に染みますね。

杏里さんの結婚相手は、世界的に有名なデザイナー山本寛斎の甥っ子で、「岸田健」アパレル会社 社長と、1988年に結婚しています。その後 岸田氏は詐欺で逮捕されてしまいます。当然ですが、1993年杏里さんは、離婚します。杏里さんは何故、岸田氏の人間性を見抜けなかったのか、杏里さん自身 相当苦しんだ事だと思います。山本寛斎という肩書と信用は大きかったのでは、と思います。

そして、現在は日本と海外のミュージシャンによるグローバルバンドで 精力的にライブ活動を行っています。17歳でデビューし、63歳になった今現在も、美しくしなやかに生きてますよね。

 

杏里の結婚相手は、山本寛斎の甥で、アパレル会社社長だった

杏里は、人気絶頂期の1988年に、世界的デザイナー・山本寛斎の甥でアパレル会社社長の”岸田健”という一般人と結婚しました。杏里と岸田健の結婚式では山本寛斎がデザインしたウエディングドレスを着用しての、素敵な結婚式でした。

杏里と岸田健の馴れ初めは、公表されてませんが、山本寛斎を通じて知り合ったのでは、と言われています。

杏里はこれまでに自身のライブで山本寛斎デザインの衣装を着用しており、その縁がきっかけとなって岸田健との出会いに繋がった可能性が考えられます。

杏里と元旦那の岸田健は1988年に結婚し、1993年に離婚しました。離婚原因は公表されてません。

その後岸田健は、高齢女性からキャッシュカードをだまし取る、という詐欺で逮捕されてしまいます。岸田健はこれまでに何度かの逮捕歴があり、「住所不定、無職」となっており、杏里との離婚後はカプセルホテルやネットカフェで生活していたと言われているので、杏里と結婚していた頃にはもうアパレル会社社長の肩書きは無くなぅていたのかもしれません。

杏里さんは、実家が裕福でお嬢様で育っている為、人を疑わずに信じる気持ちが強い人なのかも知れませんね。

杏里は現在アメリカのロスアンゼルスに住んでおり、2度めの婚約と破棄があった。

2000年に移住したLAは、デビュー時のファーストアルバムのレコーディングで訪れた時から、とても気に入っていて、いつかはLAで生活したいと常々考えていた場所であり、そういった願いを叶えて、LAを拠点に国内外での音楽活動をしている。

2005年5月 杏里は、43歳の時、全国ツアー初日の公演中に、ステージ上で「婚約しました」とファンに向けて報告しています。米国人ギタリストのリー・リトナー(52歳)です。

2人の出会いは、杏里の洋楽カバー・アルバムの制作の際に、歌手とプロデューサーという形で知り合い、その後も、杏里がリトナーのコンサートに参加して、彼のギターに合わせて歌を披露したこともあり、お互いにアーチストとして尊敬し合い、交際が深まった。

2007年7月に、週刊誌において破局が報じられて、2008年4月に杏里の公式サイトにて、公式に婚約を破棄したことを発表。

リー・リトナーの女性好きというのは、定評があり、その時その時の、のめり込みで、簡単にラブ・コールを送ってしまい、口説くのがすごく上手です。そして彼の離婚歴は、数えるのが鬱陶しくなるほどです。

一方、音楽家としてのリー・リトナーは、現代音楽の大家です。オーケストラの譜面も書けて、ラテン音楽への造詣も深い、世界的な音楽プロデューサーです。

杏里にとって、出会った事のないタイプだったのでは、と思います。本当に純真な疑う事を知らない杏里ですね。

杏里のプロフィール! お父さんがやり手で実家が凄い。

杏里は、1961年神奈川県大和市に生まれ、現在63歳です。アメリカ・ロスアンゼルス在住

本名は 川嶋 栄子、身長は168㎝、血液型はA型

デビュー曲は、1978年に「オリビアを聴きながら」です。

お父さんは、黒部ダム建設に携わり、その後 温泉発掘に成功し、温泉施設の「中央林間ハッピーランド」を経営されました。

――大変な「お父さん子」だったと聞きます。

「それは本当で、父も私を溺愛してくれました。けれど3人の兄の下に私が生まれた当初、父は不本意だったようです。建設業、生コンクリート製造、温泉掘削と次々事業を立ち上げて成功させたエネルギッシュな父は、もうひとり男の子が欲しかったのですね。母は『産んで1週間たっても父が病院に来ない』と兄に泣いたといいます」

[日本経済新聞夕刊2019年5月21日付]

杏里さんは、4人目の女の子だったんですね。お父さんのエネルギッシュさ!が伝わってきますね。

「どこにでも父について行きました。幼稚園のころから私は地獄耳で、父が仕事で北海道に行くと気付いたときは、朝早くから玄関にがんばっていて、強引について行きました。父と会社の顧問弁護士が仕事の話をしていた銀座のクラブについて行き、退屈のあまり外に出て迷子になったこともあります。数寄屋橋の交番に保護されてしまいました。学校を休んででも父と全国を旅していたのです」

[日本経済新聞夕刊2019年5月21日付]

杏里さんは、本当にお父さんが大好きだったのが、伝わってきますね。杏里さんも子供時代からお父さん同様にエネルギッシュですね。

幼少期からピアノを習い、長兄の影響でドライブの時によく聴いたポール・モーリアをコピーしたり、またオリビア・ニュートン・ジョンやアース・ウインド・アンド・ファイアー、荒井由実、尾崎亜美、風、かぐや姫、吉田拓郎、井上陽水等、あらゆるジャンルの楽曲を聴いて育った。

1978年のデビュー以来、杏里というアーチストをどう作り上げて行こうか、レコード会社やプロデューサーが模索し、1982年に、花王のCMで使われたシングル盤「思いきりアメリカン~I Love Poping World,Anri~」がヒット、「夏」「海」という杏里のイメージが固まった。

杏里のお父さんは、2018年に亡くなってしまいます。アメリカでレコーディング中だったとの事。

「父の死はレコーディング中の米国で知りました。大きな悲しみと喪失感の中、2日間だけ帰国してすぐにレコーディングに戻りました。仕事を投げ出さない責任感、一度決めたら続ける力、臆さず新しいことに挑戦する心など、私が父の背から学んだことはたくさんあります。それは40年ステージを降りていない今の私を支えています」

[日本経済新聞夕刊2019年5月21日付]

杏里さんは、本当にお父さん子で、お父さんにも溺愛されていたのが、分かります。お父さんに今も守られて音楽活動をしていらっしゃるのが伝わってきます。

角松敏生という 日本の音楽シーンにおいて洗練されたサウンドを、ストイックに追求し続ける音楽家であるプロデューサーと出会ったのも、杏里のシティ・ポップの発展には、大きかったと思います。

2020年代、シティ・ポップの女王賭して」再ブレイクしている。2021年、同期デビューで、交流のある”竹内まりや”とユニットを組んで、「Watching Over You」を発表している。

2023年2月、デビュー45周年を記念して25年ぶりに、「ミュージックステーション」に出演、世代を超えて大きな反響を呼んだ。

シティ・ポップの女王として今も世界的な活躍を続ける杏里さん、今後もしなやかに美しく活躍するライブが楽しみです。

 

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