杏里さんは、17歳で「オリビアを聴きながら」でデビューしました。
杏里さんは、人気絶頂期に世界的ファッションデザイナーの山本寛斎の甥で、アパレル会社社長の”岸田健”という一般人と結婚しました。
その後 杏里さんは岸田氏と離婚します。
わずか5年間の結婚生活でした。
杏里さんの現在の活動は日本と海外のミュージシャンによるグローバルバンドで 精力的にライブ活動を行っています。
杏里さんが旦那の岸田健さんとスピード離婚した真相と
そして 現在も美しくしなやかに生きている杏里さんの活動を紐解きます。
杏里が旦那の岸田健とスピード離婚した真相は?

杏里さんと元旦那の岸田氏とは1988年に結婚してます。
そして1993年に離婚という5年間の結婚生活でしたが、正式な離婚原因は公表されていません。
旦那の岸田健の逮捕!
その後岸田健さんは、高齢女性からキャッシュカードをだまし取る、という詐欺で逮捕されてしまいます。
岸田健さんはこれまでに何度かの逮捕歴があり、「住所不定、無職」となっています。
杏里さんとの離婚後 岸田氏はカプセルホテルやネットカフェで生活していたと言われていました。
杏里さんと結婚していた頃にはもうアパレル会社社長の肩書きは無くなっていたのでしょうか。
もしかして、私の勝手な想像では 元々アパレル会社自体が無かったのでは?という疑問が出てきます。
杏里さんは何故、岸田氏の人間性を見抜けなかったのでしょうか?
岸田氏の叔父様であるファッションデザイナーの山本寛斎という肩書と信用は大きかったのだと推察します。
杏里さんは、実家が裕福でありお嬢様育ちである為、人を疑わずに信じる気持ちが強い人であると個人的には思います。
杏里さん自身 相当苦しんだ事でしょうね。
岸田健は山本寛斎の甥
杏里さんの結婚相手は、世界的に有名なデザイナー山本寛斎さんの甥っ子です。
そのご縁で「岸田健」アパレル会社 社長と、知り合ったんですよね。
杏里さんと岸田氏の結婚式では山本寛斎さんがデザインしたウエディングドレスを着用し、素敵な結婚式を挙げました。
ファッションデザイナーの山本寛斎のウエディングドレスは本当に素敵だったと思います。
杏里さんはこれまでに自身のライブでは、山本寛斎デザインの衣装を着用していました。
その縁がきっかけとなって岸田氏との出会いに繋がったという事ですね。
杏里の現在の活動は?

杏里さんは、2000年にLAに移住しました。
デビュー時のファーストアルバムのレコーディングで訪れた時からとても気に入っている所がLAでした。
いつかはLAで生活したいと常々考えていた場所でその願いを叶え、LAを拠点に国内外での音楽活動をしています。
海外の大好きな場所で、周りの雑音や煩わしい思いをせずに過ごせるなんて、個人的には羨ましいですね。
米国人ギタリストのリー・リトナーと婚約と破棄!

2005年5月 杏里さん43歳の時、全国ツアー初日の公演中に、ステージ上で「婚約しました」とファンに向けて報告しています。
お相手は米国人ギタリストのリー・リトナー(52歳)氏です。
2人の出会いは、杏里さんの洋楽カバー・アルバムの制作の際に、歌手とプロデューサーという形で知り合いました。
その後も、杏里さんがリトナー氏のコンサートに参加し、彼のギターに合わせて歌を披露したこともありました。
2人はお互いにアーチストとして尊敬し合い、そして交際が深まったようです。
その後2007年7月に、週刊誌において破局が報じられ、2008年4月に杏里公式サイトで、婚約を破棄したことを発表しました。
リー・リトナー氏の女性好きというのは有名で、その時その時の のめり込みで、簡単にラブ・コールを送ってしまうという癖があり、口説くのがすごく上手いそうです。
そしてリトナー氏の離婚歴は、数えきれないとの事。
ですが、音楽家としてのリー・リトナー氏は、現代音楽の大家です。
オーケストラの譜面も書けて、ラテン音楽への造詣も深い、世界的な音楽プロデューサーです。
杏里さんは きっと出会った事のないタイプだったんだと思います。
本当に純真で疑う事を知らない杏里さんだったんですね。
杏里のプロフィール

- 本名:川嶋栄子(かわしま えいこ)
- 生年月日:1961年8月31日
- 出身地:神奈川県大和市
- 身長:168cm
- 血液型:A型
- デビュー:1978年、「オリビアを聴きながら」でデビュー
- 代表曲:「CAT’S EYE」「悲しみがとまらない」
- 活動ジャンル:ニューミュージック、シティ・ポップ、J-POP
- 所属事務所:サンミュージック
- 現在の拠点:アメリカ・ロサンゼルス
お父さんがやり手で実家が凄い
お父さんは、黒部ダム建設に携わり、その後 温泉発掘に成功し温泉施設の「中央林間ハッピーランド」を経営されてました。
杏里さんのお父さんへの思いが綴られている 父親への愛を凄く感じるメッセージです。
――大変な「お父さん子」だったと聞きます。
「それは本当で、父も私を溺愛してくれました。けれど3人の兄の下に私が生まれた当初、父は不本意だったようです。建設業、生コンクリート製造、温泉掘削と次々事業を立ち上げて成功させたエネルギッシュな父は、もうひとり男の子が欲しかったのですね。母は『産んで1週間たっても父が病院に来ない』と兄に泣いたといいます」
出典元 [日本経済新聞夕刊2019年5月21日付]
杏里さんは、4人目のたった1人の女の子だったんですね。
お父さんのエネルギッシュさ!が個人的に伝わってきますね。
「どこにでも父について行きました。幼稚園のころから私は地獄耳で、父が仕事で北海道に行くと気付いたときは、朝早くから玄関にがんばっていて、強引について行きました。父と会社の顧問弁護士が仕事の話をしていた銀座のクラブについて行き、退屈のあまり外に出て迷子になったこともあります。数寄屋橋の交番に保護されてしまいました。学校を休んででも父と全国を旅していたのです」
出典元 [日本経済新聞夕刊2019年5月21日付]
杏里さんのお父さん子が伝わってくるメッセージですね。
杏里さん自身も子供時代からお父さん同様にエネルギッシュだったのが、個人的にも伝わって来ますよね。
杏里さんのお父さんは、2018年アメリカでレコーディング中に亡くなってしまいました。
杏里さんの深い哀しみが、私にもしんしんと伝わってきます。
「父の死はレコーディング中の米国で知りました。大きな悲しみと喪失感の中、2日間だけ帰国してすぐにレコーディングに戻りました。仕事を投げ出さない責任感、一度決めたら続ける力、臆さず新しいことに挑戦する心など、私が父の背から学んだことはたくさんあります。それは40年ステージを降りていない今の私を支えています」
出典元 [日本経済新聞夕刊2019年5月21日付]
杏里さんは、本当にお父さん子で、お父さんからも溺愛されていたんですね。
今もお父さんに守られて音楽活動をしていらっしゃるのではと感じますね。
歌手デビュー迄
幼少期からピアノを習い、長兄の影響でよく聴いていたポール・モーリアをコピーしていたそうです。
またオリビア・ニュートン・ジョンや、荒井由実、尾崎亜美、風、かぐや姫等、あらゆるジャンルの楽曲を聴いて育った杏里さん。
1978年のデビュー以来、”杏里というアーチスト”をどう作り上げて行こうか、レコード会社やプロデューサーが模索していました。
1982年に、花王のCMで使われたシングル盤「思いきりアメリカン~I Love Poping World,Anri~」がヒットし、「夏」「海」という杏里さんのイメージが固まったそうです。
杏里さんのハスキーな歌声とエキゾチックな魅力は、80年代から90年代にかけて多くのファンを魅了しました。
私もそのうちの一人です!
杏里さんの音楽活動は1978年にデビューしてから現在までずっと続けています。
日本だけでなく海外でも活躍している所が、評価されている要因ではと思います。
杏里さんの音楽が心に響く理由の一つは、杏里さんが感情豊かで、多くの人々に共感されるテーマを歌い上げている所ではないでしょうか。
杏里の代表的ヒット曲

オリビアを聴きながら 1978年リリース
時間を経て多くの歌手にカバーされ、スタンダードナンバーへと成長した曲!歌詞の中の「ジャスミンティーは眠り誘う薬」というフレーズは個人的にも印象的。
悲しみがとまらない 1983年リリース
恋の切なさや喪失感をテーマにした歌詞で、この曲は特に「I Can’t Stop the Loneliness」というサビのフレーズが印象的で、私の心に深く響いてくる。
CAT’S EYE 1983年リリース
この曲はエネルギッシュなリズムと都会的なムードを持ち、サビ部分の「CAT’S EYE」というフレーズは私の耳にも残るキャッチーさです。
担当プロデューサー
角松敏生さんは 日本の音楽シーンにおいて洗練されたサウンドを、ストイックに追求し続ける音楽プロデューサーです。
角松さんとの出会いは杏里さんのシティ・ポップの発展には、大きかったのではと思います。
まとめ

2021年は、同期デビューで交流のある竹内まりやさんとユニットを組んで、「Watching Over You」を発表しています。
2023年2月には、デビュー45周年を記念して25年ぶりに、「ミュージックステーション」に出演し、世代を超えて大きな反響を呼んでいましたよね。
シティ・ポップの女王として今も世界的な活躍を続ける杏里さん。
今もしなやかに美しく、活動し続ける杏里さんのライブが楽しみです。
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