杉山清貴&オメガトライブの40周年の時間!と現在は?

男性グループシンガー

夏・海・リゾートをテーマに、日本のサマー・ソングのヒットメーカーとして知られている杉山清貴とオメガトライブ。

1983年にデビューし、ツァーは2回!7枚のシングルと5枚のアルバムを発表し、活動期間はわずか2年8ケ月で、解散に至りました。

杉山清貴&オメガトライブは、その当時の作家やアレンジャーが集結したプロジェクトチームとして結成され、「書いて貰った楽曲を演じていただけなので、逆に苦しかった!」そうです。それに疲れ果てて約3年で解散しました。

そして、新曲は出さない!と決めて、60代となった今、当時観られなかった人に、当時の曲をほぼ聴けるライヴを!という事で活動を再開しました。ファイナルツアーです。

当時からのファンにとっては、最高に盛り上がる楽しみなライヴですね。

 

杉山清貴&オメガトライブの歴史!デビューと代表曲

杉山清貴は、1980年、第19回ポピュラーソングコンテストに、「GOSPELの夜」で、入賞。ポプコン入賞後、メジャーデビューのオファーを受けていたが、オリジナル楽曲の完成度に納得できず、誘いを断っていたが、トライアングル・プロダクションの社長から声をかけられて、メジャーデビューのきっかけを作る。一流のアーティストは違いますよね。

オメガトライブというバンド名称の名付け親は、ハワイのカリスマDJのカマサミ・コングで、オメガトライブとは、「オメガ」(ω,Ω)=ギリシャアルファベットの最後の文字で、「トライプ」=種族を合わせ、「最後の種族」という意味がある。ネーミング候補の最後の行にあった名前だそうです。

杉山清貴&オメガトライブは、バンドでは無く、プロジェクトであり、自分達はその一員であったとの事である。

1984年4月、第一弾プロジェクト「杉山清貴&オメガトライブ」として、レコードデビューする。が

1985年12月、プロデューサーとメンバーとの方向性の違いにより、横浜のライブを最後に解散。

代表曲は、1984年4月、「SUMMER SUSPICION」、1984年1月、「君のハートはマリンブルー」、1985年3月、「ふたりの夏物語‐NEVERENNDING SAMMER」(最大のヒット曲)など。

 

杉山清貴&オメガトライブ 「最後のツアーをメンバー全員が楽しんでいる。

杉山清貴は、「当時は青春真っ盛りという感じでとにかく楽しかった。今もその”楽しい”は続いている。楽しいことしかやらないので」とインタビューに答えています。

杉山清貴&オメガトライブは、メンバー全員が60代半ばとなり、「今しかできないという気持ちが強いので、ファイナルツアーと名付けました」、と今回のツアーの意気込みを杉山清貴は語ってます。

オメガの曲は、型がきちんと決まっているから、あの当時の演奏、サウンドでなければきちんと再現出来ず、歌えないそうです。他のバンドの演奏では、杉山が自由に歌ってしまうので、曲の世界観が全く変わってしまうそうです。声はでるけど、オメガの声になるのに、時間がかかってしまうので、毎回一切気が抜けないライヴになる。と言っています。

このツアーのゲネプロを観たが、杉山の歌はキーは当時と変わらず、メンバーの演奏もまさに“あの音”だ。メンバー全員がオメガトライブを楽しんでいる。それが音に表れていた。新曲がないことで逆にずっと応援しているファンは、オメガトライブの世界に“浸れる”し、新規のファンも、限りなくオリジナルに近いアレンジを再現しているのでスッと耳と心に入ってくるはずだ。

Y!ニュースの記事より

杉山清貴&オメガトライブ 青春を全員が楽しんでますよね。私達ファンもオメガの曲を聴けて楽しんでいます。

杉山清貴のプロフィールと経歴と現在

杉山清貴は、1959年に神奈川県横浜市に生まれて、現在65歳です。身長167センチ、血液型はAB型です。

杉山清貴の子供時代は、警察官の父親と、日本舞踊の師匠をする母親のもとで育った。

小学4年生の頃、ビートルズのアルバムを聞いて衝撃を受け、特にビートルズの「イエスタデイ」が大好きで、ジョージ・ハリスンに憧れていました。お小遣いを全て、ビートルズに注ぎ込み、レコードや訳詞集を買って読み込むうちに、自らも作詞を始めたり、その後ギターを買って練習を重ねて、作曲にも挑戦し、中学の頃に初めてとなるオリジナル曲「ことほどさように」を作る。

杉山は、作曲するにあたり、フォーク音楽の、井上陽水や吉田拓郎などにも影響を受けた。また、佐渡山豊が沖縄語で唄う「ドゥチュイムニィ」に多大なる影響と刺激を受けた。

杉山清貴は、10代からバンド活動を始め、ビートルズのコピーバンドを結成するが、高校2年生の時に、他のバンドLAMBのヴォーカリストとして誘われて、地元のライブハウスに出演し始める。高校を卒業する頃には、杉山の澄んだ伸びやかなヴォーカルは、地元アマチュアミュージシャンの間では有名となった。

父親から、「進路は好きな道に進んでよい。ただし家を出て自力で生活をしろ」と助言を受けて、高校在学中にライブハウスでバイトしながら、アパートで一人暮らしを始めた。

お父さん、流石ですね。これが杉山清貴を育てたんですね。

成人後、R&Bやブルースに傾倒し、「自分の声がキレイ過ぎる」と、酒を浴びるほど飲んでタバコを吸い、声を潰そうとしたが、すぐに元の声に戻ってしまうことを繰り返して、結果どんどん喉が強くなって行った。

杉山清貴は、1990年代から、ハワイを第二の拠点として活動!

杉山清貴は、日本とハワイを行き来する生活だったが、2006年にハワイを引き払った後、2025年現在は、鎌倉に住んでいる。

杉山清貴は、1985年に元歌手の柳沢裕子さんと結婚し、翌年、娘の「まほ」さんが誕生!その後、家族3人で、ハワイ、オアフ島のハワイカイという高級住宅街に、移住し生活をしていました。さらに、1992年にはアメリカ永住権を獲得し、順風満帆でした。

音楽活動は、ハワイと日本を行き来し、レコーディングはロスアンゼルスで行うというグローバルな活動でした。

しかしながら、離婚する事となり、杉山は日本に戻り、奥さんと娘さんはアメリカ本土に残りました。取得したアメリカ永住権は2006年に返納しています。

杉山清貴は、7月で65歳になる!しかし杉山の歌声は爽やか!

 7月で65歳になる杉山の歌声は爽やかで、時の流れを感じさせない。だが当人は「大変です」と苦笑する。「オメガはボーカルもサウンドの一部になってキチッと歌わないといけない。リハーサル最初の4日ぐらいは喉の使う場所を探り、やっと確信が持てた」

読売新聞オンラインより

杉山清貴は、杉山以外のメンバーが一般人の為、自分のこと以上に、「みんなの体力が、大丈夫かなあ」と心配しつつも、時代の流れに呼ばれてのライブは楽しそうです。

 

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