テレサ・テンの死因は?生きてる?スパイだった?恋人とチェンマイで!

女性シンガー

「アジアの歌姫」、テレサ・テンは覚えてますか?

1995年 42歳の若さで、この世を去ってしまいました。その死は、国葬とされるぐらい影響力があるんですよね。

「アジアの歌姫」と言われて、私達を魅了し続けた テレサ・テン!その人生の光と闇を紐解きたいと思います。

 

テレサ・テンの死因は?

テレサ・テンは、1995年5月に度々静養で訪れたいたタイのチェンマイのホテルで、気管支喘息の発作を起こし、苦しくて部屋から出て倒れていた所を、ホテルの従業員に発見されて、救急搬送されましたが、病院に着いた時には、既に死亡していました。

心臓マッサージを施したり、電気ショックによる蘇生も行われたが、生き返る事は無かったそうです。42歳という若さでした。

テレサ・テンが、以前ホテルで喘息の発作が起きた時に、「部屋が煙草臭くて、気管支喘息にはよくない」と医者に指摘されたそうですが、愛煙家のテレサ・テンは、精神安定剤として煙草を辞められなかったみたいです。

テレサ・テンさん、静養先のタイのホテルで、気管支喘息が原因で亡くなるなんて、本当に苦しかったでしょうね。

テレサ・テンの遺体は、台湾に搬送されましたが、空港には200人超の報道陣と、陸海空の儀仗兵らが出迎えて、そしてテレサ・テンの葬儀がテレビ放映されました。

中華テレビ局内に、安置された棺は霊堂に設置され、この礼拝堂に2000人を超えるファンがこの日足を運びました。

同月台北で国葬が執り行われ、世界中から3万人のファンが詰めかけたそうです。

国葬って凄い事ですよね。テレサ・テンの存在の大きさ、影響力が分かりますよね。

テレサ・テンの遺体は、火葬されずエンバーミングといって、消毒や保存処理、また修復したりして長期保存を可能にする技法にされたそうです。

台湾でこのような形で眠っているのは、蒋介石と蔣経国、そしてテレサ・テンの3人だけだそうです。

テレサ・テンの偉大さが本当に伺われますよね。凄い事ですね。

1970年代に、テレビでテレサ・テンの歌を聞いていた私は、身近に感じます。

テレサ・テンのスパイ説もあった!

テレサ・テンは、台湾国民党のスパイだったという噂が浮上したのは、彼女の高い語学力や広範囲での活動が関係していました。

多言語を使いこなしたことで、情報収集活動に関与していたと指摘されています。

また、1989年の天安門事件の時に香港の抗議集会に参加した事や、民主化運動を支援した行動も、噂を強めたと考えられています。

1990年代にアジア各国で2回ほど死亡説が流布しています。

1度目は1990年5月〜6月に父親の葬儀への欠席をきっかけとした病死説と、2度目は翌1991年4月〜5月に病死説・暗殺説が流れ、それを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げらました。

1995年5月のテレサ・テン死亡時にも暗殺説が流れた程です。

しかし、この説は公式に否定されており、テレサ・テンの影響力や政治的背景が絡んだ憶測の域を出ない内容のようです。

歌手としてのテレサ・テンの力強い業績があったからこそ、様々な謎や伝説が生まれたようで、世界的影響力って凄いですね。

 

テレサ・テンは生きている!という噂

テレサ・テンの生きている噂は、これは真偽不明の憶測です。

テレサ・テンは1995年に42歳で亡くなったと公式には伝えられています。しかしながら、「実は偽装死である」という説や「どこかで生存している」といった噂が、時折浮上しています。

このような噂が生まれる背景には、彼女の国際的な影響力の大きさがあると思います。

テレサ・テンの生存説に関する噂の根拠として、

  1. 偽装死説: 彼女が公式に報じられた死因が喘息の発作によるものだったにもかかわらず、その後「実は偽装死をしている」という説がタイで語られるようになりました。亡くなった国であるタイという所が、また真実味がありますよね。
  2. 影響力の大きさ: テレサ・テンさんの歌手としての絶大な影響力は、「実際には彼女が生存している」という希望的観測や、憶測を生みやすい背景になっていると思います。テレサ・テンファンとしては、生きていて欲しいという強い願望がありますよね。

テレサ・テンが残した歌や精神が、ファンの心に今も生き続けているからこそ、このような説が語られるのだと思います。ファンの心の中には生きて続けていますよね。

 

テレサ・テンの結婚への夢!

テレサ・テンは1981年に香港の有名な実業家(シャングリ・ラホテル)などの経営者一族であるボー・クオック氏と婚約しましたが、結婚には至りませんでした

理由は、テレサ・テンが音楽活動を続けるか、結婚して芸能界を引退するかの選択を迫られたからです。

テレサ・テンは音楽活動を続ける選択をしました。その選択には深い葛藤があったと思います。でも私は、「アジアの歌姫」になるのは、天から与えられた才能だと思いますので、これが良かったと思います。

テレサ・テンはジャッキー・チェンとのロマンスの噂も有りました。ジャッキー・チェンは、自伝でテレサ・テンとの交際について語っています。

世紀のビックカップルですね。ジャッキー・チェンの驕りが、テレサ・テンが別れを選んだ要因のようです。

 

テレサテン、恋人と過ごしたタイのホテルで!

1989年、テレサ・テンの夢である、両親の生まれた中国本土での初のコンサートが中止になってしまいました。夢が破れてしまったんですね。

その心境を「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」とテレサ・テンは語っています。精神的に苦しかったと思います。

同1989年、失意のなかアジアを離れて、フランスのパリに単身移り住むようになります。

この頃から、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していってしまい、表舞台にも出なくなりました。

そして、テレサ・テンは晩年、タイのチェンマイにあるインペリアルメーピンホテル(現インターコンチネンタル・チェンマイ)に静養で時々訪れていました。

このホテルの1502号室が「テレサ・テン・スイート」として公開されています。凄い事ですね。

テレサ・テンはそこで喘息の発作に見舞われ、1995年5月8日に亡くなってしまいました。

テレサ・テンは14歳年下のフランス人の恋人、ポール(ステファン・ピエール 28歳)とタイのホテルで時々一緒に過ごしていた時期がありました。

ステファン・ピエールとテレサ・テンは、特別な絆で結ばれていたそうですが、最期の瞬間には残念ながらテレサ・テンは一人だったようです。

一緒にいたら早く救急搬送も呼ぶ事も出来て助かったかも知れませんね。

インペリアルメーピンホテルでは、テレサさんが愛用していた部屋やその調度品がそのまま残され、訪れるファンがその足跡を辿る事が出来るそうです。

テレサ・テンのWiki的プロフィール

テレサ・テン(1953年1月~1995年5月8日)台湾出身の歌手。

テレサ・テンは兄3人と弟1人という男兄弟の中で育つ。

テレサ・テンは10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝し、天才少女として注目される。

14歳の時にプロ歌手としてデビューし、なんと 16歳で、主演映画が製作され女優デビューを果たす。その後、18歳で香港でもレコードをリリース!

1970年代から1990年代にかけて、日本、シンガポール、タイ、マレーシアを含めたアジア全域で絶大な人気と歌唱力を博し、トップスターで「アジアの歌姫」と呼ばれた。

1974年、21歳のときに日本での歌手活動を開始する。

ちなみに、テレサ・テンの「テレサ」の英語読みは、マザー・テレサにちなんだと言われていますが、カトリック信徒であった洗礼名です。「テン」は本名の姓である。

すでにアジアのスターであったテレサ・テンは、日本デビュー2作目の「空港」が大ヒットし、台16回日本レコード大賞新人賞を獲得し、その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。

1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。

偽造パスポートではなかっため、事件としては白黒はっきりしないグレーな決着となり、1年間の国外退去処分となったそうです。イメージが少し汚点が付いてしまいましたね。

1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。良かったです。

レコード会社もポリドールからトーラスレコードに移籍して、「つぐない」で日本再デビューを果たす。これからがよりファン層が広がりましたよね。

1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてもテレサ・テンの歌が事実上解禁されたことで人気が再燃します。

コンサートのオファーも届くようになり、同時期に米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれます。やはりテレサ・テンに人気・影響力は本物ですね。

テレサ・テンの歌「空港」「つぐない」「時の流れに身をまかせ」ファン歴40年の私は、

今でも残る 本当に素敵な曲を歌い続けたテレサ・テンの人生を辿ってみました。

テレサ・テンという激情な人生を精一杯生きたのですね。

 

タイトルとURLをコピーしました