大貫妙子、1953年生まれ、現在72歳、愛称ター坊は、日本のポップ・ミュージックにおける女性シンガー・ソングライターの草分け的存在の一人として、繊細な世界観と透明な歌声で、今も多くの人達を魅了しつつ、現在もライブ活動を行っています。
大貫妙子は、坂本龍一が、2023年3月に71歳でガンで亡くなった時に、「荼毘に付す前日にお会いすることが叶いました。安らかで、、、」と坂本龍一さんを追悼してます。
大貫のなかでは、坂本龍一との想い出が美しい形として、残っているんですね。アーティスト大貫の透明感のある生き方を感じます。
大貫妙子と坂本龍一の関係と音楽的影響
大貫妙子の「新しいシャツ」は、坂本龍一との別れの曲である。穏やかに美しい想い出を書き綴った歌詞と曲である。
この歌は、坂本龍一も想い出の曲で、自叙伝『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』に、綴ってます。
坂本龍一の告白
今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました。しかし、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当にひどいことをしてしまいました。その後、大貫さんと親しくしていた母が、龍一がお世話になったと会いに行ったようです。「お母さまが、清楚な真珠のネックレスをくださいました」と、大貫さんから聞きました。そして当時、大貫さんが発表したのが『新しいシャツ』で、この曲の歌詞を聴くとつい泣いてしまう。でも、泣いてしまうのは自分だけじゃなくて、ふたりのコンサートでぼくができるだけ感情を抑えながらこの曲のイントロを弾き始めると、なぜか客席からも嗚咽が聞こえるんですね。きっと、ぼくたちの昔の関係を知るひとがいたのでしょう。
だけど、あれから長い時間が経ち、今ではもう親戚のような付き合いになっていて、『UTAU』では大人のミュージシャン同士の新たな関係が築けたと思います。それにしても、昔のことを思い返すと本当に懐かしい。大貫さんと知り合った70年代の頃は、みんなまだ売れていないし、とにかく時間ありました。麻雀をやろうと思ってもふたりだけじゃできないので、仲のよかった山下達郎くんに電話で「来ない?」と誘うと、彼は練馬にあった実家のパン屋から、店の軽トラを運転してすぐにやってくる。もうひとり、近所に住んでいたギタリストの伊藤銀次くんも呼んで、4人でひたすら雀卓を囲んでいました。三徹だってザラでした。誰ひとり、ろくに仕事をしていないのに、どうやって食っていたんだろう。
そして、大貫妙子は、坂本龍一との出会いを綴ります。
「ある日私の家に来て、そのままずっといた」
ある日私の家に来て、そのままずっといた、っていう感じです(笑)。うちのLP棚を片っ端から聴いて、二人で盛り上がる毎日。当時の、ウェザー・リポート、ブレッカー・ブラーズ、マリーナ・ショウ、卜ッド・ラングレン、ダニー・ハサウェイ・・・
本当にナチュラルに出会い、自然な流れで2人は、人生のひと時を一緒に過ごした!という事ですね。2人にとってのこの時間は、人生の大切な貴重な時間ですね。
あまり、洋服や見かけを気にしなかった坂本龍一が、忙しくなってきた頃、徐々に変化してきました。
初めてのソロアルバムだし、アルマーニのスーツを着たのがすごく嬉しかったみたいで。「どうよ」とか言って(笑)。彼は学生運動も長くやっていたし、アンダーグラウンドな音楽もやっていて、チャラチャラしたものなんて!っていう、出会った頃はそういうものの塊だったんです。女の子を見る時以外はキッイ顔をしていたし。そんな彼でも、アルマーニを着せられたら人生変わっちゃう(笑)まんざらでもないっていう。嬉しそうだった。
仕事も増えてきていましたし。それである日、出ていったような気がします。というか、サポートミュージシャンとしての仕事で、ツアーにも行くでしょ。当然、家にいないことが多くなりますよね。そのうちなんか来なくなりました。別れるとかそんな話をした記憶もないですし。でも頼んでいる仕事はあるので、会うことはあるし。……そうですね、そんな感じでしょうか(笑)
大貫妙子と坂本龍一は、一緒に住んでいた生活から、仕事の仲間という関係に変わって行きました。それも自然に!大貫は、坂本龍一を送り出した。という風に見えます。ミュージシャンとしてのアーティスト同士の関係!に。
大貫妙子は、お酒をどんなに飲んでも、全くお酒に飲まれないそうです。が、坂本龍一はお酒に飲まれてしまうそうです。こんな2人の在り方の違いでも、大人の大貫妙子さんを感じます。
そして、坂本龍一さんが亡くなった時に、お別れの言葉を残し伝えています。
「坂本さんとご縁の深かった方のご好意により荼毘に付す前日、お会いすることが叶いました。肉体に宿ったすべての苦しみから解き放たれ本当に安らかで綺麗なお顔でした。家族に見守られ安心して旅立ったことを思います。ありがとう坂本さん 大貫妙子」(原文のまま)
大貫妙子 それを支える仲間達
大貫妙子は、坂本龍一と仕事での関係を、長く大切にしていました。お互いにアーティストとしてリスペクトした関係です。
シュガー・ベイブを離れて一人になったら、全く自信なかったのね。もう、このままやめるんじゃないかと思ったし…。でも、まわりの勧めにより、続けていこうと。いつも、山下くんの影にかくれてピアノを弾いてただけの存在だったけど、そんな私にも何か可能性を感じてくれた人がいたんですね。話しを進めてくれたのは、後に『ロマンティーク』『アヴァンチュール』をプロデュースしてくださった牧村憲二さんです。そういう意味ではまわりの人に恵まれていた。(中略)
それでも、まだソロ・アルバム『グレイ・スカイズ』を出した時は半信半疑でした。これから、どうやっていくかも具体的に考えられませんでした。とにかく、これからは自分でやっていこうと思った時に、やっぱり音楽的パートナーが必要だった。今までは山下くんというパートナーがいたわけでしよ。
その時にいろいろな人とソロ・アルバムで仕事した中で、坂本龍一さんとの出会いが、ものすごく自分にとって大きかったわけですね。まだ彼はそんなに有名ではなかったけれど、とても才能のある人だと思ったし、もう芽生え始めていましたから。その頃、新しいシンセサイザーが出だした頃で、いち早く取り入れて使っていました。随分、勉強熱心だったし、研究熱心だったから。
『グレイ・スカイズ』の中でやってるんだけど、彼のアレンジで。坂本くんも、最初は私の仕事を通じて、いろいろ試しながらやってたようなところがある。でも、自分のやりたいものとは、すごく近いところを持ってたのね、最初っから。私のメロディーというのは、すごく楽器的なので、どこかクラッシックの要素が強く、その点、坂本くんは基本的なところで、よく理解してくれました。
また、多くの仕事仲間がいます。山下達郎、細野晴臣、松任谷正隆、小林武史、小松亮太など、様々なミュージシャンとコラボレーションや共同制作を重ねてきました。
大貫妙子は、常にシンガー・ソングライターというアーティストとして音楽と向き合って生きていました。本当に透明感のある生き方ですよね。
大貫妙子経歴とプロフィール!
1953年、杉並区久我山に生まれ、12歳から兄の影響でドラムを始めています。
中学・高校時代にはアマチュアバンドを組み、アルバイト先の喫茶店で、キャロル・キングなどを、ギターで弾き語っていました。
大貫妙子は、四谷にあったロック喫茶「ディスクチャート」で、山下達郎に出会い、1973年に村松邦夫、鰐川己久男、野口明彦らと共に、シュガー・ベイブを結成したが、1976年にメンバーが、それぞれの音楽的方向性が違う為、シュガー・ベイブは解散する。
シュガー・ベイブ解散後、1976年からソロ活動を開始し、現在は、ソニー・ミュージックダイレクトに所属している。
2020年3月に、ニューヨークに住んでいた頃、「尊敬」「愛」「従順」を基本理念とした「人間空手」を標榜とした誠道塾の空手道場に通ってます。ちょうどコロナの時期でしたね。
大貫妙子の私生活と今後の活動は?
現在、大貫さんは、湘南葉山と北海道札幌の2つに、自宅を持って行き来しています。「こころのかけらを探して」行き着いた場所との事です。アーティスト!大貫さんらしいですね。
大貫にとって、「ライブとは、自分を鍛えてくれるもの」と言ってます。「ファンという存在が、愛情を持って見てくれる反面、面白くない!というのが、続けば来なくなる。」と。なので、「前のコンサートよりも良かったと思って貰えるように精一杯ライブコンサートをする。」と言ってます。
また、コンサートでは自分が歌いたいものより、お客さんが聴きたいものを考える!と言ってます。自分の年齢や好きなサウンドの中で、人は音楽に何を望み、何を求めるのか!とかを常に先を考えて曲創りをしているそうです。
大貫妙子は、ずーっとジェイポップのミュージックアーティストとして生き続けています。大一線で活躍する人は、やはり違いますね。大貫さんの音楽に対する透明感のある生き方にリスペクトします。
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