「東京」マイペース(フォークバンド)の現在と経歴!ボーカルは死去?

フォークシンガー

フォークバンド、マイペースの1974年リリースの「東京」のサビ部分の「東京へはもう何度も行きましたね」というフレーズは特に有名で、多くの人々の心に残っていると思います。

その作詞・作曲をし、メンバーの森田貢さんは2022年6月18日、急性骨髄性白血病のため東京都内の病院でお亡くなりになりました。68歳でした。

フォークバンドの「マイ・ペース」のボーカルとして「東京」などの名曲を生み出した彼の功績は、「東京へはもう何度も行きましたね」というフレーズと共に今も私の心に哀愁を感じさせています。

この「東京」という曲と共にリスペクトして行きたいと思います。

マイペースのメンバーの今現在と経歴!

フォークグループ「マイペース」は、秋田県 の 昭和町 飯田川町 組合立羽城中学校(現在の 潟上市立羽城中学校)の同級生である 、森田貢さん、伊藤進さん、根次男さんの3人で結成されたグループです。

3人は同級生だったんですね。やはり気心が分かるので、コミュニケーションも上手くていったのでは、と個人的には思います。

同郷のシンガーソングライター 山平和彦 のバックバンドを経て、 名古屋 に活動拠点を移し、その後 1974年 にシングル『東京』でメジャーデビュー!

当時名古屋を中心に活動していたマイ・ペースのメジャーデビューシングルで、この曲のヒットと共に東京に活動拠点を移してました。

グループの活動は転機を迎え、1978年に根次男さんが脱退しました。

その後は森田貢さんと伊藤進さんの2人で活動を継続。

さらに2010年にはオリジナルメンバーで再結成し、テレビ出演やライブを通じて「東京」などの楽曲を再び披露しました。このライブは非常に懐かしかったです。

彼ら「マイペース」はただ歌を届けるだけでなく、フォークソングの一時代を彩る存在として、時代を越えて多くの心を動かしました。このトリオがもたらした音楽的影響はとても尊いものだったのでは、と個人的には思います。

 

マイペースの「東京」は森田貢が描いた遠距離恋愛の風景!

「マイ・ペース」は74年にデビュー。 代表曲の「東京へはもう何度も行きましたね」の歌詞で知られる「東京」は、作詞・作曲が、森田貢さんで、遠距離恋愛をテーマに書き上げた曲でしたが、小さい子供の頃にテレビから流れてくるこの曲は、何度も頭の中でリフレインしてました。

森田貢さんはこの曲の背景に自身の体験を基にした思いを込めており、名古屋と東京で離れて過ごす恋人との時間を表現しました。

その切ない別れの感情は、多くのリスナーに共感され、森田さん自身、非常にシャイな性格だったそうですが、彼の音楽には深い感受性が表れていると個人的には思います。

森田貢さんは「当時、花の東京なんて歌うのは恥ずかしいという風潮は確かにあったけど、何のかんの言っても、心の底にはやはり東京への根強い憧れは重々ありました」と述べている。

リリース当時の東京は、高度経済成長の影響で、大気汚染や公害、交通渋滞等が噴出していまして、当時から自然のある田舎に帰ろうという風潮はあったようですね。田舎育ちの私にはあまり理解出来ていませんでしたが。

この曲では地方から見た東京への憧れと、心の奥深くに触れる遠距離恋愛の切なさ!等、少し切ない思いが詰め込まれており、当時の高度経済成長期の背景を反映し、都会の夢と現実のギャップを歌い上げている名曲だな!と私は思います。

累計で約100万枚の大ヒットを記録した「東京」この一曲でマイ・ペースの名前はフォーク史に刻まれたね。凄いですよね。

マイペース「東京」は、森田貢と共に、時を超えるメロディーへと!

フォークグループ「マイ・ペース」のリードボーカルとして活躍した森田貢(もりた・みつぎ)さんは、2022年6月に、68歳で、急性性白血病の為に都内の病院でお亡くなりになってしまいました。

森田貢さんの家族に関する詳しい情報は公式に多くは公表されていないようです。ただし、彼の最後の瞬間には、長年一緒に活動してきた同じ中学校の同級生であり、「マイ・ペース」のメンバーでもある伊藤進さんが寄り添っていたことが報じられています。

葬儀は近親者のみで行われ、その後の追悼式では多くの人々が集まり、彼の生涯と音楽を偲びました。森田さんの音楽や人柄は、これからも多くの人々の記憶に残り続ける事と私は思います。

彼の音楽を支える人々との深い絆もまた、彼の人生の一部だったんだろうな!と個人的には思います。

この曲「東京」はリリース以来、さまざまなアーティストによってカバーされ、時代を超えて愛されています。マイペースと森田貢さんの影響力は、フォークソングの歴史に輝き続けていると私は思います。

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