宇崎竜童と阿木燿子!馴れ初めと出会いは?年齢や現在の2人のWiki!

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ダウンタウンブギウギバンドの宇崎竜童さんと阿木燿子さん!とても素敵なご夫婦だと皆さんも感じているように、私もそう思います。

そんな 2人の素敵な出会いと馴れ初めを紐解き、2人の作品「曾根崎心中」は、2人が子供のように育てて来た作品だとお2人が云っているように、私もそう思います。

そういった2人の子供のような作品も合わせてリスペクトして行きたいと思います。

宇崎竜童と阿木燿子の出会い!

宇崎竜童さんと阿木燿子さん、2人の出会いは、まるでドラマのようなロマンチックなものだったと私は思います。

竜童さんと燿子さんが明治大学で出会ったエピソードは、まさに運命的!

大学入学2日目、和泉校舎の前で宇崎さんは阿木さんを見て、「魂が魂を見たような感覚だった」と感じ、「あ、嫁が歩いて来た」と直感したそう!

これは一目惚れってヤツですよね。

そして、軽音楽クラブに誘い、その後部室へ向かう中央線の車内で、「奥さんになる人だ」と確信を深めたんだって!

それからずっと今迄一緒に生きて来ているのが、まさに運命!ですね。個人的には 運命の2人が一緒に生きているなんて、なんてロマンチックなんだろう!と思います。

竜童さんは、告白するのを 出会って半年間我慢を重ねてから 交際を申し込んだそう!

竜童さんは、阿木さんの気を引くために、阿木さんが大ファンだった越路吹雪のレコードをプレゼントしたそうです。阿木さん 生まれて初めてのレコードです。

竜童さん、本当に阿木さんが大好きなんですね。阿木さんはこういった心配りが、本当に嬉しかっただろうな、と私は思います。

その後、約7年間の交際を経て結婚!

人生のパートナーでもあり、曲を創るパートナーとしても、前世でも約束して生まれて来たとしか思えない出会いなんだな!と他の方も感じると思いますが、個人的にも感じますね。

宇崎竜童のWikiプロフィール

宇崎竜童さん本名:木村修司(きむらしゅうじ)1946年生まれ、音楽界のレジェンド!

友人の占い師が「木村だと業界で生きていけないだろう!」ということで、色々な占いの結果、「宇崎」の姓をもらったとの事。

私はこの占い!当たりましたねぇ、と思いました。

京都伏見区に生まれるが、間もなく東京代々木上原に引っ越し、中学卒業迄京都で育つ!

東京商船学校を卒業した父親が、船具店を経営し裕福に育つが、会社が倒産し、生活が一変し、高校から、借家生活となる。

竜童さん、お金持ちと貧しい暮らしと2つの経験をされるんですね。苦労人なんだなあ!と私は思いました。

明治大学時代は、軽音楽クラブに所属し、同い年の阿木燿子さんを、軽音楽クラブに勧誘して、2人で作詞・作曲活動を始めたそう!

この頃から2人はもうコラボしているんですね。素敵な事だな!と私は思いました。

1973年に、コンサートに飛び入り参加したのがきっかけでレコード会社から声がかかり「ダウンタウンブギウギバンド」を結成しデビュー!

1974年に「スモーキン・ブギ」が全国的なヒットとなった。B面の「港のヨ-コ・ヨコハマ・ヨコスカ」も大ヒット!

曲中の「アンタあの娘の何なのさ」というセリフは流行語となる!あの時代流行りましたよ。確か映画も作られましたよね。と私の記憶には有ります。

阿木さんの天才的な作詞力ですね。

阿木燿子のWikiプロフィール

阿木燿子(あき ようこ):1945年年生まれ、本名は木村広子(旧姓は福田)

長野県で生まれるが、神奈川県横浜市で育つ。

1964年、明治大学文学部に入学し、宇崎竜童さんに、校門で軽音楽クラブに勧誘され、クラブに入部し、夫となる同学年の宇崎竜童さんと出会う。

宇崎さんは、校門の方へ歩いて来た阿木さんを一目見て、「あ、嫁が来た!」と思ったという。

胸にピンと来たー!一目惚れですね。この時の阿木さんの気持ちはどんなだろう?って 私は想像します。

テレビ出演では「妻・阿木燿子を語る」と題されたコーナーでの本人トークで「先輩から校門での部員勧誘を命じられ、はじめに声をかけた女の子がうちの嫁なんですよ。声かけた瞬間に、この人、昔あったことあるかな?もしかしたらこの人俺の嫁になる人じゃないかな(と思った)」その時はそれを言うのはがまんしたが幸い入部してくれたから今があると語った。

1971年12月に、宇崎竜童さんと結婚する。そして作詞家としてのキャリアスタートをし

宇崎竜童さん率いるダウンタウンブギウギバンドに書いた「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は1975の最大のヒット曲を生む作詞って、凄い才能を感じるのは私だけでは無いと思います。

その後、多くは宇崎さんが作曲し阿木さんが作詞するというコンビで、多数のヒット曲を世に送り出します。

女優としてドラマや映画にも出演。出演作は多くはないが、大胆なラブシーンも演じて熟れた肉体を披露、独特のスローなテンポと相まって大人の女性を演じて魅せた。

また、阿木燿子さんは作家としても多数の著書があるなど、多才ぶりを発揮し、宇崎さん同用 才色兼備ですよね。私は本当に羨ましいです。

宇崎竜童の病気は大丈夫?

宇崎竜童さんは、2022年の春に小腸憩室炎にかかり、緊急手術で、40センチも小腸を切断したそう!この病気は小腸に突起がでてしまう病気らしい!

でも、術後は順調に回復していて、最近の健康診断では、良好な状態という事で阿木さんも一安心ですね。2人が幸せなので、私も何故か安心!

30代前半ごろに映画撮影の際、耳栓を付け忘れての弾着の発破によって難聴を患っています。

現在は補聴器を使用しながらの作曲をしているとの事で、これも問題なさそうですね。生きていると色々な事があるなあ!と私は思います。

宇崎竜童に阿木燿子の手料理の思いやり!

宇崎竜童さんと阿木燿子さんは、阿木さんが宇崎さんに「私より先に死んではダメ」とお願いしたという素敵なエピソードがあり、お互いを愛し合い、長い人生を共に歩んでいく決意が私は感じられます。

そんな阿木さんは、お料理が得意でお料理はお手の物ですが、野菜も大好きなので、ご自分でもよく食べているとの事!

宇崎さんは、ナスが嫌いなのですが、阿木さんが、ある日にナスを生のままで食卓に出す。翌日はナスを煮て出す。その翌日はナスを焼いて出す。と阿木さんの手料理のレパートリーの多さのお陰で、嫌いなナスが食べれるようになった!

と語ってます。だから僕の一番のご馳走は、妻の手料理だと気づいたそうです。

本当にお互いを思いあって生活するって、素敵なご夫婦だなあ!と私は思います。

 

 宇崎竜童と阿木燿子の2人関係が続く訳は!

宇崎竜童さんは、極度のスポーツ嫌い。わずかな移動も乗り物を使います。それを反省してスポーツクラブの会員となるが、1日でもう行かない!という”おっくう”さ!という性格。

そして、学生時代のファッションは、あの時代流行りのアイビールックです。おしゃれ!でしたねぇ。アイビールックに個人的には、私は萌えます。

夫人の阿木燿子さんの事は学生時代から、本名である「広子さん」と呼んでいる。

宇崎さんは下戸であり、大の甘党である。特に饅頭やケーキなどには目がない。

本人はお酒を飲まないがそれに対し、夫人の阿木さんは酒好きで強いと有名である。晩酌をする妻の横で宇崎さんは茶を飲み、甘味に舌鼓を打つことも珍しくないそう。男と女が逆だからいいんだな!と個人的には思います。

2人は日常会話でもお互いに敬語を使っているんですって。このようにして相手への敬意を忘れないようにしているそう。さらに、お互いを「初めて会った人のように思う」気持ちを大切にしているとの事。

本当にほのぼのした素敵なご夫婦ですね。

宇崎竜童と阿木燿子の生んだ作品「FLAMENCO曾根崎心中」!

この「FLAMENCO曾根崎心中」は、2001年度文化庁芸術際舞踊部門・優秀賞を受けています。

阿木燿子さんと宇崎竜童さんが手がけたこの作品は、伝統的な物語にフラメンコの情熱を加え、新しい形で観客を魅了しました。芸術と革新の結びつきを示す素晴らしく、評価が非常に高い作品!

『フラメンコ曾根崎心中』から17年、『Ay曾根崎心中』へ。

「我が子を育てている感じ」(阿木)

――初演から17年経ちました。

阿木 そうなんです、子供を育てている感じがありますよね。

――この舞台は色々な出会いから生まれていると、お聞きしました。

阿木 そうなんです。宇崎が映画『曽根崎心中』(1978年)で、徳兵衛を演じたことから始まって、自分の演技のできに納得がいっていなかった彼の元に、文楽との共演の話がきました。それで1979年に『ロック曽根崎心中』として舞台化しました。

宇崎 でもあなたがフラメンコを学んでいなければ、フラメンコと結ばれることはなかったよね。

阿木 本当にそうで、当時私がフラメンコを習いに行っていて、そこでダンサーの鍵田真由美さん、佐藤浩希さんと出会いました。両方にストーリーがあって、両方がこの作品に結実する何かの御縁があったと思います。

ヤフーニュースより 引用

宇崎竜童さんと阿木燿子さんは、山口百恵さんの音楽においても非常に重要な存在でした。

百恵さんが、自ら宇崎・阿木夫妻に頼んだそうです。百恵さん 先見の明ですね。

百恵さんが17歳の頃から、彼女に楽曲を提供し始めて、「横須賀ストーリー」や「イミテーション・ゴールド」、「さよならの向う側」など、多くの名曲を生み出してきた。

この黄金コンビ夫妻は、百恵さんの清純アイドルから成熟したアーティストへの転身をサポートし、歌詞やメロディーで彼女の独特のキャラクターを作り上げてきた。

そして百恵さんの歌詞を読んだ瞬間、宇崎さんにはすぐにメロディーが浮かび、阿木さんはその詞に彼女自身の思いを込める。このような深い信頼が、百恵さんの成長を支えていたそう。

私は、山口百恵さんも大好きで、よくレコードを聞いていました。山口百恵さんから、竜童さんご夫婦に、リスペクトしたのです。

また、2人は「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などの名曲を共に生み出し、阿木さんは歌詞、宇崎さんは作曲と、それぞれが持つ才能を最大限に引き出してきたパートナーです。

こんなパートナーシップ、本当に私は憧れちゃいますが、他にはいないですよね。

素敵な作品たちを、子どものように生み出し、文化として育ててきた2人に今後も期待して注目して行きたいと思います。

最後迄有難うございました。

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